ねじり柿 (対面石)
ねじり柿
本殿の西側にあります。
対面石
左の石に頼朝公、右の石に義経公が座られた。

 永暦元年(一一六〇) 伊豆韮山の蛭ケ島に流された、頼朝は十四オの少年であった。
これから治承四年(一一八〇)八月十七日、平家追討の挙兵迄、約二十年間の青年時代を、
富士を眺めながら、伊豆の韮山で過ごしたのである。文覚との出会い、その他挙兵についての
勧めはあっただろうが、彼の生活は父義朝の菩提をとむらう念仏一途ではなかったかと思う。
三島明神・箱根権現・伊豆山権現への参詣も、大切な仕事であったにはちがいない。
 しかし何といっても、挙兵のひき金になったのは、以仁(もちひと)王の令旨(りょうじ)であった
ことは間遠いない。
 八月十七日、三島明神の大祭日を期しての、挙兵はまことに時宜(じき)を得たものであった。
だが、その後の石橋山での敗戦は、再起不能になるのではないかと懸念された。
 ところが、安房から、上総・下総を経て武蔵に入り、鎌倉を本拠とする迄、わずかニケ月足らず
である。この電撃作戦はまことに見事なものであった。
 十月十六日に鎌倉を進発、二十日には富士川の平氏を敗走させ、黄瀬川に陣した。
この時奥州藤原氏のもとにのがれていた、九郎義経が、三十騎あまりの武者をひきつれて馳せ参
じた。この時義経は若冠二十二才であった。義経は父義朝が殺されてのち、鞍馬山にのぼり、寺院
に召しつかわれていた。やがて十五才になった牛若丸は、ひそかに鞍馬山をぬけ出し、あちらこち
らをさまよい、そして、ついに、陸奥の国の王者としての実カをほこる藤原秀衡のもとをたよって、
ここにおちついた。
 そして、兄頼朝が挙兵したことを知り、平泉の館から夜を日についで歩き通し、頼朝のいる黄瀬川
の陣に到着したのである。
 ようやく黄瀬川の陣に到着した義経は、館の番人によびとめられ、いあわせた土肥実平に、自分
の身を名のった。この様子を奥の部屋で聞いていた佐々木盛綱が、急いで出てきて、
「このお方は風のたよりに聞いていた、九郎義経殿だ。すぐおつれ申せ。殿もお待ちかねでおられ
る。」
「九郎殿、ご案内申し上げましょう。こちらへ。」
 盛綱は、細かいいたわりを見せながら案内した。義経は盛綱に案内されて、広い部屋のまん中にす
わった。そして、正面にふかぶかと頭をさげた。義経はもう胸がいっぱいになってきた。
頼朝もしっかりと義経を見まもっている。一度は命をおとす運命におかれた兄弟が、今ここで対面し、
懐かしさにことばも出せない。
「風のたよりに、みちのくにいると聞いていた、九郎義経とは、おまえか。」
「はい九郎義経でございます。」
「この頼朝が旗あげと聞いて、遠くよりかけつけてさたのか。」
「伊豆には兄君がおられると聞かされ、長い間、伊豆の空をしたわしく思っておりました。」
 義経は、両手をついたまま、兄、頼朝を見あげた。
「さてもよくぞ、きてくれた。よくぞたずねてくれた。」と何度もくりかえした。
 まわりに居すわる武将たちは、二人の対面をじっと見つめていた。目がしらをおさえる者、
鼻をすする者、なども出てさた。頼朝も、かい紙で涙をぬぐった。
「もっと、近くよれ。」
 義経はひざをすすめた。義経は、うれしさのあまり両肩をゆすって泣いた。
「おまえも頼朝も、戦で父を早く亡くしたが、よくこそここ迄成人された、当年何才になるか。」
「二十二才になりました。」
「こよいの対面も、お父君のおひきあわせにちがいない。」
「富士川の合戦に、間にあわなくて、残念でたまりません。」
「敵は、戦わず、にげ去った。」
 やがて盃も出された。
 それから兄弟は庭に出て、石にこしかけ、夜のふけるのも忘れて、今迄の苦労話をした。
この兄弟がこしかけて、話し合った二つの石を「対面石」とよぶようになった。
対面石は、旧道東海道と、沼津バイパスの交差するところにある。
また頼朝が植えたと、伝えられるねじり柿二本がそばにある。そのためここを双柿館(そうしかん)
ともいう。
「清水町のむかしばなし」(清水町教育委員会発行)から転載する。